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帯・新井豊美
境野氏には、かつて亡き夫人に捧げられた哀悼の句集『一羽』があるが、今回の詩集『告知』では、亡き人への氏のひたむきなおもいがうすらぐことなく、より透明に深められているのが感じられる。「私たちの日々は/気が遠くなるほど長く/辛い時間だと思っていたが/過ぎ去ってみれば/たいていは/一瞬のことだった」…愛する人とともに在った一瞬がこれほどに哀切に、しかも明晰な深度を持って語られた言葉を私は知らない。新井豊美(帯より)
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ありがとう
十二階の病棟の窓は
まわりの高層ビルと
夏の空しか見えない
草も木も花も何もない
六人部屋の患者たちは
半分がうつらうつら眠っている
あとはぼんやり
備え付けの小型テレビを見ている
湯沸かし室からポットでお茶を運び
ハンドルで操作してベッドを起こす
そのたびにベッドのひとは
苦しい呼吸を抑えながら
「ありがとう」と言った
「ありがとうなんていちいち言うなよ」と言うと
本当に悲しげに途方に暮れた声で
「ありがとうのほかにどんなことばがあるの」と言った
そう
「ありがとう」のことばしか
此処にはないかもしれない
草も木も花もないのだから
ほかのことばは何もない
でもいまぼくが
「ありがとう」を受け入れるわけにはいかない
「検温です」
と看護婦が部屋にはいってきた
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